30代に初めて広島原爆ドームを観た。これが「負の遺産」産業奨励館で、ここであの日働いていた人たちがいた。

小学生の夏の戦争授業記憶
毎年、夏休みは必ず8月6日が登校日でした。そして戦争の授業や戦争に関連する映画を観たりしていました。はだしのゲン・火垂るの墓・後ろの正面だあれなど観た記憶があります。空襲で焼夷弾の雨が降り注ぎ、逃げ惑う人々の映像が蘇ります。凄く怖くて夜に夢にみることが何度もありました。でも観ないという選択はしませんでした。目を逸らしてはいけない気がしていました。二度とこのような歴史を繰り返さないために、日本では戦争の歴史を学ぶ時間がありました。
広島が怖かった記憶
子供の頃、私は広島が怖かった。たった一つの爆弾で、一瞬にして多くの命が奪われた場所。新幹線で通るだけで胸がざわつき、放射能が残っているのではと思っていました。夏の戦争授業で観た空襲の映像と、はだしのゲンの記憶が強く残っていたのでしょう。
30代で東京大空襲を学び、現場を歩く
大人になると、私はNHKスペシャルや日本映画で戦争をみるようになりました。夏になると特集がよく組まれていたのを思い出します。最近は減ってしまい残念です。戦争を体験した人たちも高齢になり亡くなられていきます。語られなくなる、忘れ去られてしまうのは悲しいです。子どもの頃に感じていた恐怖とは違い、そこには「何故こんな事が起きたのか、何があったのか」という問いがありました。ここで何があったのか事実を知りたいと思い自分なりに調べました。証言や記録を知るほど、戦争は遠い過去ではなく、現実の出来事として胸に迫るものがあります。
東京大空襲の特集映像や本など読んで1945年3月10日夜、東京の下町が火の海になりました。焼夷弾の雨が降り注ぎ、逃げ惑う人々。この日はとても寒く風が強いひでした。風で火が燃え移り業火になりました。その中でも隅田川にかかる言問橋の上で逃げ惑う2000人以上もの人が焼かれて死にました。その時の人の脂が今も欄干に残っていると。私は実際に東京に行き、言問橋を歩きました。黒くなった欄干や慰霊碑を自分の目で確かめました。東京江東区にある戦災センターにも行き、資料や空襲で焼け野原になった下町、黒焦げになった遺体の写真を観させていただきました。
戦争を学ぶ中で、原爆にぶつかった
戦争を学んでいく中で、私は原爆という現実にぶつかりました。なかでもNHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」を観て、実際に原爆の被害にあった人たちの体験を知ることになりました。たったひとつの爆弾で一瞬にして多くの命を奪いました。そしてその後も後遺症で人々を苦しめるのです。長崎にも原爆が投下され多くの命を奪いました。長崎に投下された原爆はファットマンでプルトニウム型の爆弾で、広島よりも大きな威力を持っていました。その爆風は地面に反射し、上からの衝撃と合わさってマッハステムと呼ばれる強烈な衝撃波を生み、人々をおしつぶすように襲いました。
戦争を終わらせるため?
私は戦争を早く終わらせるために原爆を投下したんだと学んでいましたが、ただ実験がしたかったのではないかと思いました。戦争だから許されるのか、人が人で原子爆弾使用の結果を知るためにと思うと悲しいですね。でもそれが戦争。ただ私は人としてこの歴史を事実をみているつもりです。日本人だからではなく、ただ一人の人間としてこの時起きた事実、歴史を自分の心と頭に刻みたいと思っています。二度と同じ過ちを繰り返さないために。人は歴史から学ばないといけませんと私の心は言っています。
原爆ドームへ

原爆について学び続けるうちに、私は広島に行かなければならないと思うようになりました。自分の足で歩いて自分の眼で歴史を学ばないといけないと強く思い30代で初めて広島・原爆ドームをみることになりました。この時、資料館は改装中で半分しか見ることができませんでした。元安川の相生橋を目標に原爆投下しましたが、実際は島病院の上空600mで炸裂しています。私は爆心地の島病院まで歩きました。島病院の所にここが爆心地ですという説明のパネルがあり、当時の状況を静かに伝えていました。
1945年の広島市にはたくさんの小学生や中学生がいました。疎開してきた子たちもいたでしょう。朝はやくから学校に向かい、いつも通りの一日が始まるはずでした。なんの罪のない小さな子どもたちが、この一発の爆弾で命を奪われました。日本人だけでなく、広島に拘束されていた外国人捕虜や、当時広島で暮らしていた多くの外国人の命も奪いました。
母と一緒に見た原爆ドーム
そして最後に、私は母と一緒に原爆ドームを見ました。二人で同じ場所にたち、同じ歴史を静かに見つめました。あの時間は、私の中で忘れられない記憶になっています。